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加茂町(現:鶴岡市加茂地区)の葉書は少し枚数がありましたので、漁港や海水浴場を含む海辺の近くの物と陸上の施設の物の組に分けました。今回の物は施設関係の絵葉書のご紹介になります。
数ある加茂町の絵葉書の中でこの2枚だけが他の物より一段古い年代の物です。右の奉安所は独立しているから奉安庫と呼ぶ方が正確なのかなと思います。
天皇と皇后の御真影が祭られていたそうで、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていたそうです。その内寸は最小で奥行85cm、高さ1.5m、幅1.2mは必要であると定められ、材質は鉄筋コンクリート造、壁厚25cm以上、片開または両開の完全な金庫式二重扉を設け、耐震耐火構造とし、内外防熱防湿のために石綿材料を施し、内部はさらにキリまたはヒノキ板張りとし、御真影を奉安する棚の高さは50cmほどのところに設けることと定められ細かい規定が設けられていたそうです(wikiより)
木造校舎よりはるかに頑丈ですね?
左の写真は、加茂小学校(2016年閉校)の昔の姿です。詳しい資料が検索しても見当たらなかったので、何代目に当たるのかはわかりませんでしたが、加茂学校新築落成の文字と41年4月8日の日付スタンプが押されています。「旧校舎」という文字が入っているので新しい校舎を建てたときに旧校舎の姿を残した物と推測されますので、下の写真の左写真の小学校と時代的につながっているのでしょうか?
2016年に閉校した時で創立142年だったらしいので、1874年(明治7年)創立ということになります。上の方の絵葉書は形式的には~大正7年までの物ですので、大正時代までの葉書に旧校舎として記録に残っているということは、明治は44年まででしたからもしかしたら初代の校舎かもしれません。
人数が少なかったせいなのかもしれませんが、校舎というには小ぶりで西洋の住宅のようにも見えモダンですね。
上の絵葉書でも触れたのですが、左の絵葉書は2代目加茂小学校校舎の可能性があります。
右が町役場なのですが、現在の鶴岡市加茂にあったのでしょうが、どこに所在したのかすら資料がありません。合併されると跡形も無く消えるのですね。もしも自分の故郷だったとしたらと思うととても寂しく感じると思います。
この公園は今は無いようです。閉鎖されたという資料は出てきませんでしたが山形市には同名の公園がありますが、鶴岡市にはありませんでした。日本中に同名の公園がありますので公園には付けられやすい名称のようです。殿様が作ったような公園でなければ、元々空き地の有効利用の意味合いの強い公園などは施設用地になる運命なのでしょうか。所在地のヒントになるとすれば右の絵葉書の風景の見えたところとなるのでしょうが、これも全然違うものに変貌している可能性が高いでしょうから手掛かりにはならないかもしれません。
この病院も町立だったのでそこそこの設備を備えていたのではないかと思うのですが、今は無いようです現在は「斎藤医院」と「多機能かも」という2つの病院がこの地区にある病院らしいです。海辺の高いところにあったような写真ですので、場所は判る人が見れば判明するかもしれないですね。海風が当たって老朽化の進みそうな場所ですね。
鎮座地
鶴岡市加茂字大崩452-1
御祭神
武甕槌之神(たけみかずちのかみ)、經津主之神(ふつぬしのかみ)、天兒屋根之神(あめのこやねのかみ)、比賣神(ひめがみ)
鶴岡市の別の地域の方でも検索で名前の出てきた神社のですが、こちらも郷社として今でも地域の人々に大変親しまれている神社だそうです。
下記は山形神社庁のホームページですが、私の知っている神祭の規模を大きく超えています。それだけ地域生活と一つになって慕われている神社ということなのでしょう。こういう行事があると地域のまとまりって続くんですよね。大祭ですからねぇ。今時こういう催しが生きているのは羨ましい。