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今回の組物は最初からの8枚組ではなく、朝暘小学校関係のコレクションを集めた物になります。
紹介の仕方が難しいのですが、大正7~昭和8年までの絵葉書が4枚と落成式の歌(これは絵葉書ではありません)の台紙は台紙の歌が第三尋常小学校の物であることから同時期の物だと思われますので、先紹介いたします。
昭和8年~昭和21年の絵葉書は朝暘高等小学校の物の様ですので、時系列で後の方に掲載いたします。
朝暘第三尋常小学校は1907年8月に開校したという事らしいです。1907年と言えば明治40年なので朝暘高等小学校(明治9年築)から31年後ということになります。この小学校も朝暘高等小学校から分かれて設立されたのだろうと思いますが、校舎の写真が同じように見えるのでちょっと不思議なところがあります。
落成式の歌の下の数字は大正6年7月29日若しくは昭和6年という意味でしょうか・・・ということだと、新校舎の落成という意味にとれます。朝暘第三尋常小学校は現在の鶴岡市立朝暘第三小学校ということですからホームページを見ると平成2年に新校舎が完成して現在の地に移転ということのようですから、開校から83年を経ています。木造校舎が83年維持できるとは思われませんので2つ目か3つ目の校舎の際の落成式歌だろうと思います。あくまで推測ですけれど、当たらずとも遠からずではないでしょうか。。。
詳しい事がネットの検索では出てきませんでしたので、他の郷土資料を見れなければこれ以上はヒントが無い状態です。
この文章の上にある写真と下に掲載予定の写真は共に朝暘高等小学校校舎の物なのですが、年代は違います。
明治9年のことになりますが、「そもそも鶴岡には藩校として致道館が存在した。しかし、県令三島通庸はあえて洋風の学校を建設した。これは明治政府に対する反感の強かったこの地方に、明治政府の威光と新しい時代が始まったことを告げるねらいがあった。そのため東京市参事での銀座煉瓦街建設の経験から当時の最高レベルの人材を集め、学校建設に力を注いだのである。 朝暘の名前は現在も鶴岡市内の小学校名として残っている。wikiより引用」とwikiには記載されていて洋風3階建てで上記の写真とは全く別物の下記校舎の写真が残っていました。
(明治9年)朝暘学校→(明治41年)朝暘高等小学校→朝暘尋常高等小学校(昭和10年に移転・22年に廃校)→(分かれて開校して)朝暘第三尋常小学校→朝暘第三小学校という名称の流れなのかと思います。
ただ朝暘第三小学校のホームページには明治40年開校とされているので、年代の違う高等小学校の分を含めて記載しているのではないかと思われます。。あくまでも戦前の教育では朝暘高等尋常小学校は今でいう中学校1・2年とその前の2学年生主体の学校になります。朝暘第三尋常小学校は尋常小学校が10歳未満の初等教育ですので、ここで大きく学校編成が変わっています。現在と同じような学校編成になったのは昭和16年からです。。単に名称の記載間違いというのも昔の絵葉書ではよくあることですので、ここはもう断言のしようがありません。推論です。
朝暘第三尋常小学校は移転した朝暘尋常高等小学校の校舎を引き継いだのかもしれません。。そうすると尋常高等小学校の絵葉書にもほぼ同じ形の校舎が映っていることの説明がつきます。
ただ一番最後で記載していますが、高等小学校の新築記念事業の絵葉書に映っている校舎と同じ姿の校舎が、それ以前の形式の絵葉書に映っていることは説明がつきません。というより理由を見つける想像力が働きません。
ここも各尋常小学校開校の沿革がわからないので推測になってしまいます。それも当然でこの写真の初代の建物は明治16年に火災で焼失したそうです。そして翌年再築され明治41年に朝暘高等小学校となったそうなんです。
推測ばかりで申し訳ありませんが、絵葉書を資料として活用されている方々には理解していただけると思いますが、絵葉書を資料として見る分には確実な発行日などが記載されていない限りは前後の年代の検索できる資料と比較して推測することしかできません。まさにそうやって想いを巡らせる事が絵葉書の醍醐味であり逓信省などの公共機関の発行する記念絵葉書ではない絵葉書の魅力だと個人的に思っています。
機関の発行する記念絵葉書を集める事は、それはそれで別の魅力です。切手やコインの蒐集と同じ立ち位置にいるのかもしれません。
人それぞれに魅力を感じるところが違います。私はこうした地方の営みが表現されているような図柄の絵葉書にとても魅力を感じます。地方の祭りや既に存在していない神社、住民がお金を出し合って建てた石碑やお堂駅舎や有名でない街並み・橋梁などの背景に勝手な妄想を膨らませて独自な価値を見出すのです。オタクと呼んで頂いても結構です(笑)。
上記3枚にも発行年月日を記載した袋はありませんが、別のところで確認したところ昭和11年3月に「母校新築記念事業 完成記念絵葉書」として朝暘高等小学校同窓会が発行した物のようです。ここが不思議な所で朝暘第三尋常小学校 の大正期以後の校舎と非常に似ているのです。この時に新築されたのだったら第三尋常小学校に譲渡した校舎ではないという事は確定事項になりますので、第三尋常小学校の校舎は景色から校舎の形まで非常に似ているけれども別物だと見るしかないということになります。なんか納得のいってない自分がいます・・・もしかして、新築って講堂だけのことかな??